映画 沈黙(サイレンス)を見る
遠藤周作の「沈黙」に初めて会ったのは17歳の暑い夏だった。夏休みの現代国語の宿題のワークブックにその一節があった。司祭ロドリゴが踏絵に足をかける15行の問題を読んだ私は、突然涙があふれ何度も何度もその15行を読み返し泣いた。翌日早速本を買いに行き読み返した。同じ場面で大泣きをすることの繰り返しだった。何が私の琴線を刺激したのかをわからないまま泣いていた。それから大人になるまでに何回読んでは泣いただろう。
その本は私の宝物として今も家にある。5年前に本棚を整理した時に読み返したのだが、私があれほど感動した小説とずいぶん違っており人の記憶なんていい加減なもんだと思った。少しショックだった。今回この映画見るにあたり、そんなこともありあまり期待もせず映画館に行ったのだが…映画は17歳の私が感極まり泣き出したあの物語だった。棄教を迫られ苦しむロドリゴに神なんていない 神なんていないのよとスクリーンに向かって叫んでいる今の私。あの時の私は沈黙をしている神に対してロドリゴと同じように苦しんでいたのだが・・
本を読んだ時の背景は暗く怖かったが、映画では私のイメージより明るくお経の声が聞こえ 17歳の私にはとてもそんな音を想像できなかったが、とても効果的であった。2時間40分という長編だが飽きることなく緊張して時間の長さは苦にならなかった。
見終えた時 神はいると思った。無宗教の私だが…イエズス会の神ではないが どこかにいる 一人ひとりの心の中なのかもしれないし 違うところかもしれないが・・・
そして17歳の私はなぜあんなに泣いたのだろうか?なぜ泣けたのだろう?たぶん浄化だったのではないかと思う。ピュアーな17歳が抱えていた思いへの浄化ではなかったのかと思う。
5年前読んだ時にショックだったのがあの当時ほとんど関心がいかなかったキチジロウだ。狡い奴だ。とても気分が悪かった。今回映画を見てキチジロウは許される人間ではないが、自分と同じではないかと思った。つまり普通にいる人間なのでは?
そして弾圧されても棄教せず殺されていく農民たち。何がそうさせるのか?その強さはなんなのか?キチジロウと隠れキリシタンに心を寄せてもう一度読み返したいと古い本を取り出した。また報告ができればと思っています。